今更だが四月から
首都圏のJRが全面禁煙となった。
神奈川県では来年夏から
海水浴場での喫煙禁止の条例を検討中であるという。
静岡や
和歌山の一部の海水浴場ではすでに禁煙が実施されていて、喫煙者にとってますます肩身の狭い状況になりつつある。
果たして本当にこれでいいのだろうか。
今や喫煙者は物言えぬ被差別者となっていてその境遇たるや絶滅寸前、とはいえ誰も保護する気配すら無くこのままではトキよりも先に消滅してしまいそうな勢いである。
「副流煙を吸いたくない」「歩き煙草は危険」「ポイ捨てをするな」等
喫煙者に制限を課す条例や非喫煙者の、主張や目的は本来こういったものであった筈だ。この点においては僕も非常に共感する。
子供の頃、大人の歩き煙草で怖い思いを何度もしたし今でもポイ捨てをする人間を見ると心から軽蔑する。神奈川県の海水浴場に捨てられるごみの3割がタバコの吸い殻であるという事実からは最早「喫煙者の自業自得」という感すらある。
かつて非喫煙者は
マイノリティであった。そのマイノリティがようやく
嫌煙権を主張できる状況になったというのは納得できるし歓迎する。
そこまではよかった。本当はそこで非喫煙者と愛煙家双方の主張を尊重し、その共存方法を模索していけばよかった筈だ。
だが社会の成熟はそうならず一部の嫌煙家はやがて喫煙そのものの行為を否定し、喫煙者の人格そのものを否定する方向へと舵を切るようになる。「喫煙者は病気」「喫煙者の
口臭は臭い」「喫煙者は差別していい」・・。これは僕の創作では無く実際に目にし耳にしてきた主張である。この主張が「言いすぎ」との窘めを受けることもなく寧ろ賛同される傾向である現実。もはや善意のファシズムである。「看護婦」を「看護師」と言い換える程差別に敏感な社会がこの差別にはまったくと言っていいほど反応しない。
ここには「受け入れがたい他者とどう共存していくか」という指向性が欠落している。
「私はタバコの煙が嫌い」という主張が最短距離で「だから喫煙者の主張も権利も一切認めない」との結論にたどりつく短絡性。
「私はタバコの煙が嫌い」。でも「タバコが好きな人もいる」「
ストレス解消のために喫煙する人もいる」・・・。で、どう共存していくか。
どう折り合いをつけていくか。その上で互いの立場を尊重したうえで改善策を見つけていく。これは何もタバコに限らず人が社会で生きていくにあたって必要な思索であり施策である。
喫煙者だって
健康に悪いことなんて百も承知である。誰に言われずとも。
昔から「タバコは百害あって一利無し」と言われ忌むべきものであった。だが「でもそうは言ってもこの一服が美味いんだよねぇ」という主張を、吸う側も吸わない側も許容する寛容さがかつてはあった筈だ。
いいものだけでなく、悪いものもある。清濁併せてこその社会であり人であるべきだ。それでもダメだと言うのなら、ダイエットを決意してもついついラーメンを食べてしまう、そんな人間の愛すべきダメさ加減と何が変わらないんだと僕は言いたい。
最後に所構わずタバコを吸ってきた、或いはポイ捨てを平気で行ってきた喫煙者も反省するべきだ。今までのマナー、モラル無視の喫煙が現況を招いたと言ってもいい。本当は行政や条例に介入させずに自分たちで改善するべき問題だったのだ。
そして本当に最後に。僕は吸いません。きっぱりと止めました。
posted by ラストブランド at 15:52| 東京

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